わたしの祖母は
2014年01月22日
わたしは、人の死にまともに直面したことがない。
人生の最も大事な局面、深刻な、影響を与えることに向き合ったことがない。
これは、ある意味、まったくシワのない、つるんつるんの脳をもっているのと同じかも知れない。
しかしながら、とりあえずは、肉親は亡くしている。
父方の祖母、父、母方の祖父、祖母。
この中で、祖父母は、わたしの年齢からみて、現在生きているとするとプリザーブド・フラワーの人間版で、
彼らは、とうの昔にnuskin、平均寿命を全うしてこの世を去った。
哀しいかといえば、90歳を軽く過ぎて枯れるように老衰で旅立った父方の祖母などは、
「おばあちゃん、おめでとう」という涙を流して喜んでくれる親戚さえいた。
悲痛な涙を流した人は、おそらく一人もいないのではないだろうか。
口数少なく働き者、優しい、穏やかな、芯の強い、明治の女性だった。
幼い頃、ずっと、忙しい母に代わって田舎でお世話になった。
この祖母には、晩年、一言だけ言われたことが印象に残る。
「選り好みせんと、ええかげんにしなさいよ」
これは、わたしが結婚適齢期の頃、わたしに相応しい相手に対してでも、なかなか首を縦に振らなかった時のこと。
自分の未熟さ故の行為であったと今は思う。
見てるとこは、見てるんやな~、おばあちゃん。
わたしの祖母は、大人しい控えめな性質であったが、夫の祖母は、凛とした理知的な人だった。
嫁いで、はじめてお目にかかったとき、
「ここをあなたの永遠の家だと思ったらいいんですよ。なんの遠慮もいりませんからね」と言われた。
こころ優しい、思いやりが綴られたお手紙も頂戴した。
それは、今も大事にとってある。
わたしの父方の祖母と、夫の祖母は、年齢的には一回りほど違い、わたしの祖母の方が年上である。
夫の祖母に、ご挨拶のようなものを言われたとき、わたしは「言葉って、すごいなあ」と思った。
明確に言葉にすると、気持ちや、考えが、はっきり伝わる。
まして、書いたものは、もっと明確に伝わる。
日頃、やたら口数の多い人もさることながら、めったに話さない人の一言というのも、効く。
わたしなど、考えずにしゃべっているので、
「で、なにが言いたいの? オチは、ないん?」などと娘に言われてしまう。
「オチは、話、ぜんぶやん!全体の流れで、最後のところあたりやん!」と、あきらかに苦しい言い訳をする。
・・・
死に面したことがない、という話から、テーマが「言葉」に移り変わっている。
すぐに脱線する。
・・・
で、わたしは死に面したことがないわけではなく、父も義父も、義祖母もあの世に行った。
何度も言うようだが、皆、平均寿命を全うしている。
さすがに、全員、老衰というわけにはいかなかったが。
もし、母や義母が牛欄牌回收、この先、この世にいなくなったとしても、これまた、今で、すでにもう平均寿命は過ぎているのでは?
だが、彼女たちには生きてもらわないと、困る。
二人とも、重要な役割がある。
用のないお年寄りというわけには、いかない。
さすがに、寄る年波には勝てず、現役ばりばりの頃のようにはいかないが、要となる案件をいくつも抱えている。
世の中のヒマな、お迎えを待つばかりのお年寄りとは、ちょっと違う。
彼女たちは「はやく、引退させて欲しい」と嘆いてみせるが、ちょっとやそっとじゃ、引退しない。
が、明らかに、年齢的な衰えは避けて通れないようである。
・・・
わたしは、死に別れるといっても、さほど哀しい目に遭っていないので、人間としての究極の苦痛の経験がない。
人の痛みもわからないのだろう。
壮絶な人生とは、対極の人生だろう。
それはそれで、深く感謝しなければならない。
エネルギーというものは、負であっても、正であっても、溜まるものである。
わたしの場合、正のエネルギーが溜まっているはずだ。
(サボっていて、あまりエネルギーを放出しないせいもある)
が、不思議なことに、知らない間に、放置された電池のように、放電してしまっている。
溜まるのは、負のエネルギーか?
なぜだろう?
性格か?
日頃、生活するにあたって、正のエネルギーを無意識に使っているようだ。
仕事や、家事、いろんな義務、・・・
なので、無意識に正のエネルギーは、いつも残量が少ない。
でも、負のエネルギーは、自然に減ることがないので、溜まる一方。
特に努力もしないのに、チャージされっぱなし。
もし、努力するとすると、無理やり減らそうとしないと、減らないかも知れない。
で、負のエネルギーが爆発しそうになるぐらい溜まると・・・
ポイントの有効期限が来る直前に、ポイントを商品と交換して使ってしまうかのごとく。
わたしの場合は、正のエネルギーに変換して組み入れているのかも知れない。
負のエネルギーをせっせせっせと、日常使いしてしまっているのだろう。
だから、負の感情やストレスが溜まらない。
正のエネルギーが、溜まっているようなかんじ。
正のエネルギーの出口が小さいからnuskin 如新、
「究極の無駄な使い方」を追究したりして、無駄に消費しているのかも知れない。
すごく大きな負があり、特異な性質の負である場合、正に変換できないこともある。
すると、変換されずに、ずっと溜まったまんまになり、ずしっと重いことだろう。
小まめに負から正に変換する方法を、各自、習得していると思う。
それが備わってない、できない場合、溜まりに溜まって、たいへんなことになる。
・・・
と、またまた、テーマがズレまくり。
で・・・、オチは?
ないやん!と言われそうだ。
永遠にオチなどないのだ。
開き直ることが、オチか? (情けない・・・)
本日は、まとめることもできす、
書き散らしたあと、片付けることもせず、
弱弱しい背中を見せて、とぼとぼ退散いたします。
人生の最も大事な局面、深刻な、影響を与えることに向き合ったことがない。
これは、ある意味、まったくシワのない、つるんつるんの脳をもっているのと同じかも知れない。
しかしながら、とりあえずは、肉親は亡くしている。
父方の祖母、父、母方の祖父、祖母。
この中で、祖父母は、わたしの年齢からみて、現在生きているとするとプリザーブド・フラワーの人間版で、
彼らは、とうの昔にnuskin、平均寿命を全うしてこの世を去った。
哀しいかといえば、90歳を軽く過ぎて枯れるように老衰で旅立った父方の祖母などは、
「おばあちゃん、おめでとう」という涙を流して喜んでくれる親戚さえいた。
悲痛な涙を流した人は、おそらく一人もいないのではないだろうか。
口数少なく働き者、優しい、穏やかな、芯の強い、明治の女性だった。
幼い頃、ずっと、忙しい母に代わって田舎でお世話になった。
この祖母には、晩年、一言だけ言われたことが印象に残る。
「選り好みせんと、ええかげんにしなさいよ」
これは、わたしが結婚適齢期の頃、わたしに相応しい相手に対してでも、なかなか首を縦に振らなかった時のこと。
自分の未熟さ故の行為であったと今は思う。
見てるとこは、見てるんやな~、おばあちゃん。
わたしの祖母は、大人しい控えめな性質であったが、夫の祖母は、凛とした理知的な人だった。
嫁いで、はじめてお目にかかったとき、
「ここをあなたの永遠の家だと思ったらいいんですよ。なんの遠慮もいりませんからね」と言われた。
こころ優しい、思いやりが綴られたお手紙も頂戴した。
それは、今も大事にとってある。
わたしの父方の祖母と、夫の祖母は、年齢的には一回りほど違い、わたしの祖母の方が年上である。
夫の祖母に、ご挨拶のようなものを言われたとき、わたしは「言葉って、すごいなあ」と思った。
明確に言葉にすると、気持ちや、考えが、はっきり伝わる。
まして、書いたものは、もっと明確に伝わる。
日頃、やたら口数の多い人もさることながら、めったに話さない人の一言というのも、効く。
わたしなど、考えずにしゃべっているので、
「で、なにが言いたいの? オチは、ないん?」などと娘に言われてしまう。
「オチは、話、ぜんぶやん!全体の流れで、最後のところあたりやん!」と、あきらかに苦しい言い訳をする。
・・・
死に面したことがない、という話から、テーマが「言葉」に移り変わっている。
すぐに脱線する。
・・・
で、わたしは死に面したことがないわけではなく、父も義父も、義祖母もあの世に行った。
何度も言うようだが、皆、平均寿命を全うしている。
さすがに、全員、老衰というわけにはいかなかったが。
もし、母や義母が牛欄牌回收、この先、この世にいなくなったとしても、これまた、今で、すでにもう平均寿命は過ぎているのでは?
だが、彼女たちには生きてもらわないと、困る。
二人とも、重要な役割がある。
用のないお年寄りというわけには、いかない。
さすがに、寄る年波には勝てず、現役ばりばりの頃のようにはいかないが、要となる案件をいくつも抱えている。
世の中のヒマな、お迎えを待つばかりのお年寄りとは、ちょっと違う。
彼女たちは「はやく、引退させて欲しい」と嘆いてみせるが、ちょっとやそっとじゃ、引退しない。
が、明らかに、年齢的な衰えは避けて通れないようである。
・・・
わたしは、死に別れるといっても、さほど哀しい目に遭っていないので、人間としての究極の苦痛の経験がない。
人の痛みもわからないのだろう。
壮絶な人生とは、対極の人生だろう。
それはそれで、深く感謝しなければならない。
エネルギーというものは、負であっても、正であっても、溜まるものである。
わたしの場合、正のエネルギーが溜まっているはずだ。
(サボっていて、あまりエネルギーを放出しないせいもある)
が、不思議なことに、知らない間に、放置された電池のように、放電してしまっている。
溜まるのは、負のエネルギーか?
なぜだろう?
性格か?
日頃、生活するにあたって、正のエネルギーを無意識に使っているようだ。
仕事や、家事、いろんな義務、・・・
なので、無意識に正のエネルギーは、いつも残量が少ない。
でも、負のエネルギーは、自然に減ることがないので、溜まる一方。
特に努力もしないのに、チャージされっぱなし。
もし、努力するとすると、無理やり減らそうとしないと、減らないかも知れない。
で、負のエネルギーが爆発しそうになるぐらい溜まると・・・
ポイントの有効期限が来る直前に、ポイントを商品と交換して使ってしまうかのごとく。
わたしの場合は、正のエネルギーに変換して組み入れているのかも知れない。
負のエネルギーをせっせせっせと、日常使いしてしまっているのだろう。
だから、負の感情やストレスが溜まらない。
正のエネルギーが、溜まっているようなかんじ。
正のエネルギーの出口が小さいからnuskin 如新、
「究極の無駄な使い方」を追究したりして、無駄に消費しているのかも知れない。
すごく大きな負があり、特異な性質の負である場合、正に変換できないこともある。
すると、変換されずに、ずっと溜まったまんまになり、ずしっと重いことだろう。
小まめに負から正に変換する方法を、各自、習得していると思う。
それが備わってない、できない場合、溜まりに溜まって、たいへんなことになる。
・・・
と、またまた、テーマがズレまくり。
で・・・、オチは?
ないやん!と言われそうだ。
永遠にオチなどないのだ。
開き直ることが、オチか? (情けない・・・)
本日は、まとめることもできす、
書き散らしたあと、片付けることもせず、
弱弱しい背中を見せて、とぼとぼ退散いたします。
Posted by fridayne at 18:29│Comments(0)
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